2015年御翼2月号その1

「日本の良心」と呼ばれた弁護士・正木ひろし

 かつて、「日本の良心」と呼ばれた弁護士・正木ひろし(一八九六〜一九七五)がいた。
 彼を一躍有名にしたのは、後に「首なし事件」と呼ばれる戦時中(昭和十九年)に茨城で起った警察官による暴行事件である。当時は自白が何よりの証拠とされていたため、取り調べ中の容疑者への拷問は黙認されていた。脳溢血で死んだと言う警察に対し、疑惑を抱く遺族が正木弁護士に調査を依頼した。正木は寺に土葬されていた容疑者の遺体を掘り出して、首を切断、東大法医学教室の古畑種基教授に鑑定を依頼、警察官を告発した。死体損壊は犯罪であるが、当時は証拠として用いられれば、罪に問われないケースもあったという。
 不祥事を起こした巡査を起訴まで持ち込んだが、検察、被告人、裁判所すべてが国家的犯罪を隠ぺいしようとしていたため、正木は敗訴する。それでも正木は諦めない。もともと画家になりたかった正木は、軍国主義を批判する個人雑誌「近きより」を発刊しており、雑誌主催で美術展などを開いていた。その人脈には、多くの検察官や裁判官も含まれていた。裁判の異常性を記事にすると、正木の正義感に魅了され密かに応援する検事が増えていった。その一人が、東京控訴院検事局の検事長(現在の東京高等裁判所)であった。そして、上告せず無罪で終わらせようとしていた水戸の検事局に、東京の検事局が上告しろとの異例の行政命令をくだした。「首なし事件」の審議は継続となり、更に終戦から三ヶ月後、空襲による記録焼失を理由に、「首なし事件」の裁判は最初からやり直しとなり、「無罪」の判決すら無効となった。三年後、被告人に懲役三年の刑がくだり、上告も棄却され、十一年後刑が確定した。警察官の傷害致死が認められたのだ。その後、正木はほとんどの反権力裁判・冤罪(えんざい)裁判を無償で手掛け、一九七五年、七十九歳で肝臓がんのため他界した。
 正木弁護士は教会に行くとか、ある特定の宗派に属することはなかったが、キリスト教を信仰していた。訴訟の記録や書物がところ狭しと並べられた二階の書斎の机の右隅には、数冊の聖書が置かれていた。それらは背表紙がボロボロになるほど熱心に読み返されていた。以下は、正木弁護士が冤罪事件の被害者に言って来た言葉である。
 「人間一人一人がみんな神の子なんだね。それだけに、冤罪にまき込まれた名もなき人の生命も、自らと同じくにいとおしんだ」
 「私はキリスト教の教理の真正なることを確信し、十字架を尊敬するために自らが貴君の身代りになるつもりでこの事件と取組んでいることを記憶していて下さい。私自身がキリスト教の真正なることをアカシしようとしているわけです』 (昭和二十九年六月十九日付)
 「どんなことがあっても君等を見殺しにするようなことは絶対にない。僕は君と生死を共にする。それがキリストの愛の教えである』(同年十月二十五日付)。
 そして、毎日新聞社の記者のインタビューにこう答えている。
 「私のように、今も青年の気持を持ち続けられるのは、信仰のおかげだ。これまでの事件をふり返ってみると、神の存在を考えずにはいられないんだね。僕の後ろには神がいるんだから、絶対に後ろにはひけないんだ。だって神さまをけとばすわけにはイカンだろう。裁判官、検察官といったって月給取りだからね。こっちは宗教家だ。勝負は最初からわかっているよ」と愉快そうに笑った。正木は、「義を見てなさざるは、不義なり」という言葉を遺している。これは、「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(ヤコブ 4・17)という聖書の言葉である。正木弁護士は、国家の律法よりも愛を優先し、実行したのだった。
 聖書には「愛には恐れがない」と書かれている(第一ヨハネ4・18)。また「愛は隣人を害さない」、だから「愛は律法をまっとうする」とも書かれている(ローマ13・10)。お互いに愛し合い、許し合うことができれば、そもそも争いは生じない。生じてもすぐに解決してしまう。だから、法が万能なのではなく、愛こそが万能だ、とクリスチャンの佐々木弁護士は言う。
 「このような愛は人の心に自然に生まれてくるものではない。イエスを信じることによってのみ

生み出されてくる神の愛である。ポイント―― 法や規則は大切なものだが、万能ではない。法や規則でできないことを、愛は成しとけることができる。愛は万能だ」(佐々木みつお『どんなことにもくよくよするな』)

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